ようこそ全国一茶の碑巡礼においでいただきました

一茶は芭蕉、蕪村とともに江戸時代の3大俳諧師です。家庭的に恵まれない生涯でしたが、優しく飾らず本音を20000句の17文字に表現しました。子どもや大人、世界中の人々に今も絶大な人気のある日本の詩人です。
このサイトは、全国に約340基ある一茶の碑を紹介するリンク集です。

小林一茶の生涯


■一茶の生誕
小林一茶は、宝暦13年5月5日(1763)年、信濃国柏原の農家の長男として生まれました。
3歳の時、母が亡くなり、一茶のつらい人生が始まりました。

「我ときて遊べや親のない雀 六歳弥太郎」

弥太郎は一茶の本名です。この句は、一茶が子どもの頃を思い出して作った句です。

長野県上水内郡信濃町柏原 浄土真宗本願寺派終北山明専寺句碑 塩田平ノスタルジア

■江戸での生活が始まる
新しい母となじめず、一茶をかわいがってくれた祖母が亡くなった翌年の安永6年、一茶は、14歳で江戸に奉公に出されます。
それは、後に化政文化と呼ばれる町人文化が真っ盛りの時代でした。
一茶は、奉公生活を続ける中でいつしか俳諧師を目指します。

「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」

小さな生き物に対する優しい句ですが、貧しい庶民の反骨心を表す句であるともいわれます。

東京 江東区愛宕神社

東京には、炎天寺(足立区)や本行寺(荒川区)など10基の碑があります。

■西国旅行
「旅をしなければ立派な俳人にはなれない。」
寛政4年(1792)、一茶30歳の時、師二六庵竹阿の知人を頼って6年間の西国の旅をしました。

朧おぼろふめば水也まよひ道

愛媛 松山市 西明寺 四国いしぶみ物語

一茶の碑は愛媛県に25基もあります。香川、長崎、大阪など一茶の旅に関連した句碑が多いのもわかります。

■俳諧師一茶の江戸での生活
夕月や流れのこりのきりぎりす

千葉 流山市 一茶双樹記念館 雲の上の散歩道

江戸に居を構えながら一茶は地方の俳諧好きのお金持ちの指導をして俳諧師としての活動をしていました。千葉県に14、茨城県に13もの一茶の句碑があります。

■一茶、信濃に戻る
文化9年(1804)、一茶は故郷柏原に戻り第2の生活を始めます。

「是がまあつひの栖か雪五尺」

長野県信濃町 小丸山公園

弟と半分に分けた農地は人につくってもらい、「一茶社中」という俳諧グループを使って、長野県の北信地方で俳諧師としての活動を始めました。小布施29、長野市27、山ノ内町14、高山村10など、この地方に一茶の句碑がたくさん建立されています。

■一茶の碑
一茶の地元信濃町では、今までに116もの碑を建立しました。これを含めて長野県には約240、そして全国に101、合計340余りの一茶の碑があります。しかし、その数は不確かです。一茶ゆかりの場所だけでなく、一茶の句が好きな人がたくさんいます。そうした人が碑を建ててもどこかに届け出る訳ではないからです。
2011年3月現在、インターネットで確認できた一茶の句碑の画像を掲載するサイトは340の内、240でした。長野県以外に限ると101の内、実に91%の89基が確認できます。これは、インターネットで確認できないものが、もっとたくさんあることを示していると考えます。

Information

2011/3/23
サイト試験運用開始



小林一茶記念館・資料館ののリンク集

一茶のふる里・一茶記念館、長野県信濃町
一茶ゆかりの里・一茶館  長野県高山村
一茶双樹記念館
      千葉県流山市。
小林一茶・荻原井泉水記念俳句資料館 長野県山ノ内町
袋屋美術館        長野県中野市



小林一茶の生涯

年号 年齢        できごと
1763  1 信州柏原村で農家の長男として誕生
1765  3 母が逝去
1770  8 新しい母ができる
1777 15 新しい母になじめず、江戸に奉公に出される。以後10年間の生活ぶりは不明。いつしか俳諧の道を志す。
1787  25  葛飾派の執筆として記録に現れる。 
1791 29 14年ぶりに故郷に帰る
1792 30 京阪神・四国・九州を俳諧の修行のため6年間歴遊
1801 39 父の危篤で帰郷するが父逝去
    江戸で俳諧師として活動を続ける 
1812 50 遺産相続問題が解決し、故郷に帰る
1814 52 22歳年下の「きく」と結婚
  子ども4人が授かるがいずれも死亡 
1823  61  「きく」死去 
    このころ一茶も中風を患う。
1824  62  2番目の妻を迎えるが半年で離婚 
1825  63  3番目の妻を迎える 
1827  65  柏原の大火事で家を失う 
1828 65 焼け残った土蔵で生涯を終える
もう少し詳しい年譜(pdf)はこちらです


都道府県の一茶の碑の数

都道府県 数  主な市町村
 1 長野県 240  信濃町116、長野市
 2 愛媛県  25 四国中央市、松山市な
 3 千葉県  14  流山市5など
 4 茨城県  13 利根町5など
 5 東京都  10  足立区、荒川区など
 6 群馬県   6 高崎市など
 
芭蕉の碑は、かなり昔(1991年調査)の資料だが、全国に
2442あるという。その内1位長野県227、2位群馬221、3位埼玉116、4位山形106 なお、一茶も門人たちと芭蕉の句碑を建立しています。 参考 草の道

一茶の碑の人気の句

都道府県 数 
 1 やせ蛙まけるな一茶これ(こ)にあり 13 
 2 ゆうぜんとして山をみる蛙哉  4
 2 雀の子そこのけ そこのけ御馬が通る  4 
 4 我と来てあそべや親のない雀  3
 4 雪とけて村一ぱいの子ども哉  3 
  4 木の陰や蝶と休むも他生の縁    3


古い一茶の碑

1 松蔭に寐て喰ふ六十餘州かな 長野 信濃町 文政12 1819
2 梟よつらくせ直せ春の雨 長野 長野市 天保年
3 木枯や千代に八千代の門榎 静岡 南伊豆町 江戸末
4 梅が香よ湯の香よさては三日の月 長野 高山村 明治27 1894
5 花のかげあかの他人はなかりけり 長野 飯綱町 明治32 1899
6 今年米親といふ字をおがみけり 長野 高山村 大正10 1921
7 ともかくもあなたまかせの年の暮 長野 信濃町 大正12 1923

子規と一茶

江戸時代の俳諧連歌の第1句(発句)に着目し、「俳句」ということばを広めたのは、正岡子規(1867-1002)です。子規は江戸時代の多くの俳人の中から芭蕉に次ぐ巨匠として蕪村と一茶に注目したのも俳人、歌人、国語学研究家であった子規です。
子規は「俳人一茶」という著作の他、次のような俳句も残しています。
「めでたさも一茶くらいや雑煮餅  子規」
一茶の俳句に触発された句であることは間違いないでしょう。
「めでたさも一茶くらいやおらが春 一茶」

漱石と一茶

夏目漱石は作家になる前は俳人でした。2500に及ぶ俳句を残していて正岡子規とも親しい友人でした。
「三愚集」は、大正9年刊行。一茶の俳句を夏目漱石が書き小川芋銭が絵を描いたもの。三愚とは、これらの三人を称したもので、滑稽、諷刺、慈愛を表しています。
この三愚集の漱石の真筆を拡大した碑が千葉県印西市にあります。

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